勝手に街角レポート!!その6(DAY3)

2013.02.28.Thu DIARY

 

はいさい、タッキーです。

 

またまた「RENAULTな話」ではございませんが・・・宜しかったらどうぞ

今回も、だいぶ間が空きましたので前回のあらすじを・・・

2日目は、沖縄の中部にございます観光スポットに寄り道しながら・・・

目的地「沖縄美ら海水族館」へ行きまして、この日は沖縄の自然をいっぱい満喫いたしました。

そして、3日目は予告通り「沖縄の歴史」に触れるのですが・・・

非常に悲しい歴史でございます・・・。

でも、知らない若い方には知ってもらいたい歴史・・・

知っている方には、忘れないで欲しい歴史・・・

こどもの頃、私のお祖父さんに連れられて見ておりました

沖縄の悲しい歴史の跡に、今回数十年ぶりに訪れました・・・。

 

 ※注意:今回の記事には残酷的な描写が含まれております。

 

 

・・・DAY3

 

 

本日の目的地★↓

太平洋戦争の爪痕・・・いわゆる”南部戦跡”を見ながら

沖縄平和祈念公園」を目指したいと思います。

 

まずは、那覇空港から約15分の位置にございます

旧海軍司令部壕」を訪れました。

この日は、小雨が降ってかなり寒く感じました・・・悲しみの泪のように・・・。

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昭和19年(1944年)日本海軍設営隊(山根部隊)によって掘られた司令部壕で、当時は450mあったと言われています。カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人の兵士が収容されていました。戦後しばらく放置されていましたが、数回に渡る遺骨収集の後、昭和45年(1970年)3月、観光開発事業団によって司令官室を中心に300mが復元されました。

財団法人 沖縄観光コンベンションビューロー 「旧海軍司令部壕について」抜粋
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ビジターセンターから入館すると、米国軍が撮影した制圧後の写真と、

沖縄戦線の資料映像が流れておりました・・・。

それらを見てると・・・既に涙腺が緩む自分がおりました。

 

~資料映像「もうひとつの沖縄戦記」より抜粋~

⇒動画を見る

 

司令部壕に入るトンネルの前に「資料館」がございまして、ここで出土した道具などの他

旧海軍兵が、沖縄から家族などへ出した手紙が展示されておりました。

胸がつまって・・・とても、じっくり見てはいられませんでした・・・。

どこの国の子なのかな?

この子たちの瞳には、どのように映ったのでしょうか・・・。

 

↓司令部内部へ続くトンネル。

↓壕内部通路

↓作戦室

↓司令官室

壁に書かれた詩・・・

 

旧海軍司令部壕の司令官であった大田實少将   はじめ幹部6名は、米軍の猛攻に昭和20年6月13日夜半、拳銃自決を遂げました。               大君=天皇のことを思っていたのでしょうか・・・。

 

至るところに、人の手で掘ったという痕跡がみられます・・・そのちからを他に使えれば・・・

  

当時の様子を再現した画も各所に飾られておりました。

この壕のほとんどは修復されておりますが・・・中には当時の出来事そのままになっている部屋も・・・

身が震えたのを思い出しました・・・。

 もしも、彼らに違う道があったのならば・・・

 

外に出たとき、なんだか雨が強くなっておりました・・・。

  

  

続きまして、やって参りましたのは「ひめゆりの塔」で知られる「ひめゆり平和祈念資料館」です。

私がこどもの頃に来たときは、この記念碑だけがありました。

1989年に「この戦争の恐ろしさを伝える・・・」べく建てられたのが「ひめゆり平和祈念資料館」です。

ひめゆり・・・・米国軍の沖縄上陸作戦開始の1945年(昭和20年)3月、

沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒222人教師18人が、

那覇市から南東5キロにある沖縄陸軍病院に配属されたのが、始まりだそうです。

その学徒達に与えられた仕事は・・・負傷兵の看護や、炊事洗濯水汲み・・・

死体の埋葬などでした・・・。

米国軍の激しい攻撃と進攻によって、その病院から更に南部へと後退を余儀なくされ

この地にたどり着きました・・・そして。

 

ひめゆりの塔とは”ガマ(洞窟)”のことで、この中に病棟を作り米兵から身を潜めておりました。

 

「生きて 虜囚の辱めを受けることなかれ・・・」

 

1945年6月19日・・・米兵の再三にわたる呼びかけに「沈黙」を守り、

ついには、ガス弾を受けてしまいました・・・。

日本兵及び、ひめゆり学徒を含む病院関係者、地元住人のおよそ100名のうち

80名あまりが、ここで亡くなりました。

そういった”ガマ”がこの南部ではたくさん存在したそうです・・・。

 

「祈念資料館」の中は、撮影はご遠慮ください・・・とのことでしたので、

「ひめゆり平和祈念資料館」⇒こちらをご覧頂ければと思います。

資料館の中で”証言VTR”を観ていた私は、涙がとまりませんでした・・・。

たのしい青春を送るはずだったこの学徒から”笑顔”と”命”を奪った戦争・・・。

 

 

 

 

♪ さとうきび畑

 

ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は・・・

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ・・・

今日も見渡すかぎりに みどりの波がうねる

夏の日ざしのなかで・・・

 

ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は・・・

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ・・・

むかし海のむこうから いくさがやってきた

夏の日ざしのなかで・・・

 

ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は・・・

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ・・・

あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった

夏の日ざしのなかで・・・

 

ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は・・・

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ・・・

そして私の生まれた日に いくさの終わりが来た

夏の日ざしのなかで・・・

 

ざわわ ざわわ ざわわ 風に涙はかわいても・・・

ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは消えない・・・

 

  

 

沖縄戦による戦没者数・・・

200,656名(日本側188,136名・米軍側12,520名)

 

 

 

その 太平洋戦争は「1945年8月15日」昭和天皇の声明をもって

全ての戦闘行為が停止され、終焉を迎えました・・・。

それから、28年の月日が経った頃、私はこの日本で生まれました。

 ですので、その戦争を体験しているわけではなく、学校で教わった戦争のごく一部分や

テレビのドキュメンタリーや映画で見た、または資料で読んだことで

その戦争が、どういうものだったのかという”知識”だけのものでした。

なぜ、他国を侵略し征服したのか?

なぜ、太平洋戦争に踏み切ったのか?

なぜ、この世の地獄と化すまで戦争を続けたのか?

平和を迎えて、高度成長期を過ぎた日本で育った私には

いまだに、まったく理解ができないことです・・・・・。

ですが・・・知って学ぶことはできました。

 

1945年から現在に至るまでも、世界のどこかで戦争や紛争が

絶えません・・・。

なんか・・・悲しくて・・・これ以上書けなくなってまいりました・・・。

もし、沖縄に行く機会がございましたら、その目で確かめて

知っていただけることを願います。 

 

 

”ひと”は話し合えば、お互いを理解できると、私は信じております。

 

 

 

                                ・・・to be continued

 

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